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スタートアップ業界に50年、キャピタリスト木村美都に「起業家と投資家に必要なこと」を聞いた(前編)

Monozukuri Venturesは製造業に造詣の深いエキスパートが投資面と開発・量産コンサルティングの両面からスタートアップを支援しています。 当社のエキスパートの一人であり、Monozukuri Venturesの前身であるDarma Tech Labsからパートナーとして、国内企業への投資の責任を担ってきたのが木村美都(きむら・みくに)です。 1952年生まれの木村は日本の経済成長期において金融、製造業、ベンチャーキャピタルと渡り歩き、現在も豊富な知見を活かしてスタートアップへの投資やメンタリングを担っています。半世紀近いキャリアを持つ木村はどのようにして投資家への道を歩んだのか――。ゲストライターとして、スタートアップへの取材経験が豊富な越智岳人氏にインタビューしていただきました。(Monozukuri Ventures マーケティングチーム)

――木村さんは1952年生まれですよね。生まれも育ちも京都ですか?

はい、洛星中学・高校を出て、慶應義塾大学経済学部に入りました。10代の頃はテニスやスキーに精を出していましたが、安保闘争の時期と重なっていたので、運動で逮捕される同級生もいたり、オイルショックもあったりして激動の時代でしたね。

――日本が目まぐるしく変化しながらも急成長していた時代ですね。投資家を志したのは学生時代からですか?

高校生のときは、まだそこまで考えていませんでしたね。最初のきっかけは慶応で高橋潤二郎※1ゼミに入ったことです。高橋ゼミは経済に留まらない学際的な学びを重視していて、そこで学んだことが僕のバックグラウンドにも影響しています。 VCという言葉を知ったのは社会人になってからですが、学生時代の人脈が社会人になってからも活かされています。

※1…高橋潤二郎(1936〜2013)。慶応大学経済学部教授を経て、同大湘南藤沢キャンパス(SFC)の設立に尽力。SFCでは環境情報学部で教鞭をとった。

融資の現場で知ったスタートアップの熱量

――大学卒業後は金融機関でキャリアをスタートされていますよね。

大学を卒業した1976年に中小企業金融公庫(現在の日本政策金融公庫)に新卒で入庫します。当時は設備投資に対しての数千万から億単位の融資が中心で、何ヶ月も審査して稟議書を作成するという仕事をしていました。最初は営業でしたが、その後審査部門に異動しました。VCにおけるデューデリジェンスの基礎はここで鍛えられたと思います。審査といっても多岐にわたっていて、業績はもちろんのこと業界や社長の経営に対する姿勢まで一通り見ていましたからね。

中小企業金融公庫時代の木村

その後、横浜支店に異動した際に第二次ベンチャーブーム※2が起き、そこで革新的な技術を持ったスタートアップの案件に関わります。その当時に携わっていた案件で印象に残っているのは半導体装置メーカーのレーザーテック(1962年設立)や、放電加工機メーカーのソディック(1976年設立)。革新的な技術を持った企業が急スピードで成長して、あっという間に変わっていく状況に立ち会える楽しさがありました。

※2…1980年代前半頃のムーブメント。上場基準の緩和や電気・機械を中心としたハイテク技術の台頭によって製造業や流通、サービスなど幅広い分野で新興企業が誕生した。

VCの仕事を知ったのも、その当時のことでした。きっかけは融資先企業で起きた出来事です。その企業は私たちが成長を見込んで2億円を融資したものの、財務面に問題があり業績が伸び悩んでいました。そこにやってきたのが日本合同ファイナンス(現在のジャフコグループ)です。彼らがエクイティで出資した途端にガラッと会社が変わったのです。 彼らはその当時、日本で初となる分離型ワラント債を発行して、その一部を原資に経営陣の持ち株の希薄化を埋めるといった資本政策を積極的に推し進めました。その結果、財務面の問題が解消して急成長していきました。それまでデット(融資)でスタートアップを支えてきた立場でしたが、エクイティ(株式)から支えるVCに魅力を感じるようになりました。そこから海外のVC動向を個人的に調べたり、情報収集していた矢先にヘッドハンティング会社からオファーが来たのです。 それは、とある欧州のメガバンクが大阪に支店を出すから転職しないかというオファーだったのでした。興味があったので、先方に訪問して私の思っていることを話すと「銀行部門とは別にVC部門を日本に作ろうとしているから、そっちに行ってみないか」という話になりました。ただ、その金融機関のVC部門は香港で設立することになってしまい、転職の話は実現しませんでしたが、VCに対する興味は一層強くなりました。 そんな折に慶応大高橋ゼミの大先輩にバンク・オブ・アメリカの副頭取がいて、彼がスタンフォード大学のスローンプログラムを終えて一時帰国した際に面談する機会を得たのです。私がVCに転職したい旨を相談すると、その先輩は「VCのキャピタリストというのは、それなりに起業経験を持つ人がなるべきで、シリコンバレーでは最も尊敬される仕事の一つだよ。木村君のように政府系の金融機関にちょっといた人間がなれるような仕事ではないよ」と言われたのを今でも覚えています。

――なかなか手厳しいアドバイスですね。実際、当時の国内VCはどのような方がキャピタリストになっていたのですか?

1980年代当時、日本でもVCがいくつかありましたが、キャピタリストの多くは金融機関からの転職組でした。金融機関からのセカンドキャリアみたいな位置づけで、証券系のVCはやや異なりましたが、銀行出身者中心のVCは投資にアグレッシブさを欠いていました。というのも当時のVCの中には金融機関が迂回融資するために使われていたケースもあり、そういったVCはことごとく潰れていました。ちょうど日本経済はバブル期に突入していたこともあり、正常な形で日本のVCが発展していくのは、まだ先の話になります。

32歳で合弁会社社長→初のEXITへ

その後、大阪に異動した私のもとに横浜のベンチャー企業が私のもとを訪ねてきました。それは日機電装(現在のCKD日機電装)の社長で、明電舎と共同で出資して会社を作るから社長にならないかというオファーだったのです。その当時、日機電装は世界初となる非同期誘導型ACサーボモーターを開発したばかりで、モーターを共同開発した明電舎と新たに会社を作ろうという話になっていました。

――日機電装の方はなぜ大阪にいた木村さんに白羽の矢を立てたのですか?

日機電装は横浜にいた当時、私が融資担当者で何度もやりとりしていた関係でした。私は取引先の懐に入り込んで仕事をするタイプだったのですが、社内報に寄稿するぐらいお互いのことをよく知っていました。そういった中で私の人格面を評価してオファーしてくれたのだと思います。 話を引き受ける決め手となったのは、その社長が語った将来のヴィジョンでした。それまでのモーターはメカの伝達機構で動いていましたが、これからはワイヤーでつながったモーターが分散型で機能し、同期のタイミングや出力をコンピュータで意のままに制御する時代が来る――。その究極の形がロボットであり、自動車になると彼は語りました。その礎を生み出すところから一緒にやりませんかと言われて、面白いと感じました。 その後、私は両親から借金して出資金を出し、32歳でアクタスパワードライブという会社の代表取締役として転職します。

――ちょうど社会人10年目で、奇しくも大学の先輩に言われた起業経験を積むことになったわけですね。大阪の中小企業金融公庫を辞めて、どちらに移ったんですか?

愛知県の西春町(現在は北名古屋市の一部)です。東芝傘下の会社が保有していた工場用地のうち、2000坪を買い取って最初の工場を立ち上げました。1年後には2期工事に着手してビルを建設し、給与計算のためのコンピューターを導入したりと、急スピードで会社は拡大していきました。

アクタスパワードライブ時代の一枚。

合弁会社とはいっても立ち上げ当初の社員数は少なくて、出資先から高卒の社員が数人来ただけ。仕方ないので最初は自社で新規に採用した社員を出資元の会社に研修へ出して、戻ってきた社員が開発や製造ラインに従事するというのを繰り返していました。そうこうしているうちに創業4年目で社員数100人、年商20億円にまで成長しました。 それまでは順風満帆に進んでいましたが、出資元の日機電装から営業部門に来てほしいと言われました。はしごを外されたような気持ちもありましたが、そのオファーを引き受けて日機電装の営業企画部と営業部の部長職に就きました。そうこうしているうちに日機電装が上場準備するにあたって、子会社や合弁会社を整理することになり、アクタスパワードライブが買収されることになります。親から借金した私の出資金分の株は3倍の価格で買い取られました。

――経営者として初めてEXITを経験したわけですね。

ただ、ちょうどその頃に景気が悪化(筆者注:1991年頃のバブル崩壊)したこともあって、上場は見送りになったんですね。私としても関西に帰ろうかなと考えていた頃に取引先だった米国のユニコというシステムエンジニアリング会社から日本に支社を出したいという相談を受けました。 その当時はまだ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、国内製造業や自動車産業が強かった時代です。ユニコは日機電装のモーターと、彼らの制御装置を組み合わせたシステムの販売を計画していました。彼らのメイン市場は製鉄や製紙の二次加工工場、自動車工場でした。 そこで私は関西に帰りたかったこともあり、大阪に合弁会社を作りましょうと提案して、日機電装とユニコの合弁会社であるユニコ・ニッキを設立しました。それが39歳の頃です。

ユニコ・ニッキを設立した頃の木村

――再び経営者としての道に戻ったわけですね。海外との合弁会社となると、1社目とは異なる難しさがありませんでしたか?

取引先は日本国内の大手製造業を中心に引き合いがあって、売上もしっかり出せていたのですが、いかんせん利益がなかなか出なくて儲かりませんでしたね。資金繰りにも厳しくなってきたので、どうするか話し合った結果、ユニコ・ニッキの事業を継承したユニコ単独出資の日本法人を立ち上げました。そこで最初に着手したのは原価の見直しです。

――一社体制になってブラックボックスだった価格に手を付けやすくなった。

そうですね。その当時のユニコが設定していた原価は高かったので、価格を下げたらあっという間に利益が出るようになったんですね。価格というのは経営において最も大きなパラメーターの一つです。稲盛さん(京セラ創業者の故・稲盛和夫氏)も「値決めは経営である」という格言を残していますが、その時に値付けの重要性を痛感しました。

――ユニコ・ジャパンには1999年まで在籍されて、その後いよいよVCに舵を切るわけですよね。

40歳を過ぎて、常に取引先の現場に足を運ぶことがしんどいと思い始めた頃ですね。その頃に京都でVCを始めるという人が現れたんです。それがフューチャーベンチャーキャピタル(以下、FVC)創業者の川分さん(現フリーバンクキャピタル代表取締役 川分陽二氏)でした。

――FVCはアーリーステージを中心とした投資で知られる独立系VCですよね。牧野さん(Monozukuri Ventures CEO 牧野成将)も同社に新卒で入社しています。

後で触れますが、牧野はFVC時代の部下でした。FVCに話を戻すと、川分さんが日本アセアン投資(現在の日本アジア投資)にいた時に面識がありました。故郷である京都でVCができるということに興味を持って、遊びに行ったところ、川分さんは私のことを覚えていてくれていて、投資委員会※3のオブザーバーになってくれないかと言ってくれたんです。

※3…ベンチャーキャピタルが投資を判断する場。ファンドを運営するにあたって、投資先候補の企業の審査を実施するのが主な役割。

オブザーバーですから最初はボランティアとして、週1回京都での会議に参加していました。私としては中小企業金融公庫時代の思い出が蘇ってきましたし、その頃は2000年前後でインターネットの時代を迎えてきて、時代が変わろうとしていた時代です。そうこうしているうちに川分さんから兼務ではなく、フルコミットで参加してほしいという話を頂きました。当時、FVCには常勤の役員が一人しかいなくて、将来的には上場したいということで体制を強化する必要がありました。「そんならやりましょか」ということで、FVCに転職したのが49歳の頃です。

――50代を前にして大きくキャリアを変えたんですね。振り返ると、大学の先輩から「キャピタリストになりたいなら、経営者としての経験を積むべきだ」と言われてから、20年近く経って、目指していたVC業界に踏み入れることになりました。

ユニコ・ジャパンは過去に中途採用した社員が活躍していましたから、後は彼に任せるということで私は退任してFVCに移りました。こうしてプレーヤーからサポーターに戻ったわけです。

サポーターとしてのセカンドキャリア

FVC時代の木村

振り返ると、40代のうちにもっと急速に大きくなる分野に行くべきだったと思うし、世の中全体を見ても1995年にWindows 95が出てインターネットを中心に世の中が変革するタイミングでした。私がやるべき方向とキャリアが少しずつズレてきた時期だったのかもしれません。 製造業の中でもファクトリーオートメーションというICTなどと比べると成長スピードの遅い産業にいましたが、その経験がマイナスだったわけではなく、むしろベンチャーキャピタリストとしては最初のいしずえにはなりました。 技術面ではアナログ・デジタル両方もカバーし、電気、機械、ソフトウェアも扱っていましたし、材料面では金属から樹脂まで特性を把握していました。加えてシステムの上流から通信まで事業の中で扱っていましたからね。経営・財務分析は20代からずっと続けてきた蓄積がありましたので、ベンチャーキャピタリストとしてはバランスの取れた経験を積んでいたと思います。

――そういったキャリアを評価して、川分さんも木村さんを誘ったわけですね。

僕が製造業部門の案件を担当して、川分さんはサービス業などそれ以外の部門を担当していました。FVCで僕が貢献できたのは100億円規模のファンドを初めて組成できたことでしょう。当時としてはなかなかの規模でしたからね。 投資案件についてはどうだったかというと、私は投資担当というよりは決裁者という立ち位置でしたので、投資委員会のメンバーとして参加する立場でした。ですから、下仕事は担当者がやっていたわけですね。 金融機関の融資とVCの投資の違いは最終的な責任の所在です。融資は返済義務を負う借り手に最終的な責任がありますが、出資は出資者に最終的な責任があります。融資は債務免除という最終手段はあるにせよ、借りたものは必ず返すという義務があります。出資は「あかんこともあるかもしれんけど、そのリスクは負うからやってみなさい」というのが出資者のスタンスですからね。そこに圧倒的な違いがあるので、バランスシートの科目も違うわけです。 こうした融資と出資の違いについても、僕らがスタートアップに教えることは大事です。あらかじめまとまったキャッシュインが想定できる事業であれば、デット(融資)でやったほうが基本的には資本効率もいいわけです。例えば貸しビルをやるとして入居率80%を超える見通しがあって、キャッシュフローがきちんと回るという前提があれば、次の設備投資はデットで調達すればいいのです。貸し手は利子を上乗せして回収できれば何も問題はありません。 一方で出資というのは、そういった見通しが足元では無いなかで数年後に自分たちが急成長することを見込んで、自分の株の持分を売ることなんですね。その違いをスタートアップ側にも理解してもらうことが、VCにとっても大事な仕事だと思いますね。

――そういったファイナンスのリテラシーは、木村さんがFVCに参画した2000年代と今では変わりましたか?

間違いなく良くなっています。昔は中小企業の延長線上のように捉えている経営者のほうが多かった印象があります。逆に今はVCからの資金調達を前提に起業したり、エクイティによる資本政策を前提とした事業計画を立てる経営者が増えました。

――長く存続するよりも、Jカーブを描くような急成長を前提とした事業計画ということですか

そうですね。グロースすることを前提としたビジネスモデルです。今はブルーオーシャンであっても、大企業が参入すればあっという間にレッドオーシャンになってしまう。その状況をあらかじめ想定して、急成長を仕掛けるためにエクイティで調達という事業が増えました。 前編はここまで。 フューチャーベンチャーキャピタル(以下、FVC)設立から、今日に至るまでのキャリアと、今後の日本を担うスタートアップやVCに向けたメッセージを語る後半はこちらから。

ライタープロフィール 越智岳人 編集者、ライター。 大学卒業後、複数のエンタープライズ業界でデジタル・マーケティングに従事。2013年に株式会社メイテックでWebメディア「fabcross」を立ち上げる。サイト運営と並行して国内外のハードウェアスタートアップやメイカースペース事業者、サプライチェーン関係者との取材を重ねる。2017年に独立、フリーランスとして取材活動を続ける傍ら、スタートアップを支援する企業向けのマーケティング/コンサルティングや、企業、地方自治体などの新規事業開発やオープンイノベーション支援に携わる。2021年にシンツウシン株式会社を設立。

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